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天の川、スカイフィッシュの釣り堀にて

安眠妨害水族館では書かないこと、書けないこと

「クリアできない」

か行

スーパーマリオブラザーズ3」が発売されたのは、1988年のことらしい。

僕が子供の頃、ファミコンのある家には必ずあったゲームソフトだ。

夢中になってプレイしたのは7歳のときだったので、あれは発売から2~3年経ってからだったのか、と少し驚く。

念願のファミコンを買ってもらって、まっさきに遊んだソフト。

最新のゲームを持っている感覚だったのに、そこまで新しい作品ではなかったらしい。

 

このマリオ3、毎日コントローラーを手に張り切っていたが、結局クリアはできなかった。

攻略本を読んでも、裏技を教えてもらっても、最後の最後は操作テクニックが物を言う。

セーブ機能もないから、途中でやめたら最初から。

小学生低学年だった僕には、どんなに笛を使ってステージをふっ飛ばしても、クッパまで辿り着くことすら叶わなかった。

 

この間、実家に帰ったときに、久しぶりにスーパーファミコンを取り出してみた。

あのとき、クリアできなかったゲームが、今ではクリアできるのでは、と期待したから。

まだ見ぬエンディングを見ておきたい。

残念ながらファミコンは壊れてしまっていて、マリオ3はお預けなのだが、それでもクリアしていないまま放置していたソフトはたくさんあった。

 

そのひとつが、「なるほど!ザ・ワールド」。

愛川欽也楠田枝里子が司会を務め、80~90年代に人気を博したクイズ番組をゲーム化したものである。

20年も前のゲームなので、時事的なクイズはわからなくなっているかもしれないが、今ではスマホで何でも調べられる。

卑怯ではあるが、まずはクリアを優先しよう。

そう意気込んでプレイを開始した。

 

やり始めて、たった数分。

なんでクリアするに至らなかったかを思い出してきた。

演出がやたら長く、テンポが悪い。

クイズの内容も、特に興味深いものはなく、まったくもってワクワクしない。

要するに、"クソゲー"だったのだ。

 

番組が大好きだったから買ったゲームだが、これでは夢中になれなかったのも頷ける。

だって、オリジナルが面白かったのは、テーマとなる国の面白レポート映像がついてきたからだもの。

スタジオで淡々とクイズ大会をやっているだけでは、「なるほど!ザ・ワールド」である必要性がないではないか。

 

極めつけは、ジャンピングチャンス。

上の席に座っているペアから順にクイズに答えて、不正解なら次へ、正解ならひとつ上の席と交代する。

最終的に、一番上にある席に座っていたペアが優勝、というレギュレーション。

ジャンピングチャンスは、一気に2つ上の席にまで駆け上がることができるボーナスクイズだ。

この時点で最下位だと優勝の目はないが、それ以外の順位につけていれば、これに正解するだけで大逆転となる。

 

正直、ここまでのクイズはそこまで難しくなかったため、手堅く正解すればあっさり優勝だ。

もはや楽しみではなく作業だが、作業ゲーならスマホで毎日やっている。

世界制覇も時間の問題、と油断していたところでびっくり仰天。

待っていたのは、よくわからないミニゲーム

舞台となる国によってゲームの種類は異なるようで、簡単なものは腰を抜かすほど簡単である一方、知識やテクニックではどうしようもない運任せなゲームも存在。

こんな場当たり的な茶番で優勝が決まってしまうなんて…

コンピューターのペアが優勝し、トランプマンが勢いよく飛び出してきたところでリセットボタン。

完全に心が折れた。

またしても、このゲームをクリアすることは出来ずに終わった。

 

小学生のお小遣いでは、かなり高額な印象があったスーファミソフト。

その結果がクソゲーだったときのショックたるや。

それに対して、とりあえず無料でプレイしてみて面白かったら課金、という最近のゲーム市場における基本スタイル。

個人的にはまだ馴染めないのだが、実力主義的で良いのかもしれない、と少し思った。

 

 

「一人称が定まらない」

あ行

年相応な一人称ってあるのだろうか。

一応、このブログでは"僕"で通しているのだが、30歳を過ぎたぐらいから、"僕"という自称に、なんとなく気恥ずかしさを感じるようになってきた。

 

まず、ビジネスにおいては、"私"を使っている。

大人が使う一人称だ。

子供の頃は恥ずかしかったこの呼び方が、不思議なもので、今ではしっくりきてしまう。

ただ、距離があるように受け取られるので、使いどころには注意が必要。

Twitterなどではしばしば使っているものの、このブログを始めるにあたり、統一用語とはしなかった経緯がある。

 

家族の前では"俺"を使ったりもする。

この言葉自体が大人っぽいわけではなく、むしろ子供が背伸びして使うイメージもあるが、だからといって違和感が出るものではない。

ネックとしては、東北出身の僕にとって、"俺"というのはおばあちゃんの一人称という認識だということ。

幼い頃、周辺で自分のことを"俺"と呼ぶのが、おばあちゃんしかいなかったのが大きい。

固定観念とは恐ろしいもので、その後、俺女のマーズギャというインパクトのバンギャル友達と出会ったりもするが、認識を覆すには至らなかった。

 

そして"僕"に帰ってくるのだが、これはこれで幼いというか子供っぽいというか。

いや、子供っぽいというのは、少し違うかもしれない。

無難、優等生的、個性がない…

どれもちょっとしっくりこないが、どうにか察してほしい。

"僕"を発するたびに、なんとなくムズムズした気分になるのだ。

 

相手との対話であれば、自然と使い分けられる一人称。

不特定多数に発信するという行為において、適切なのはどれなんだろう。

正解はあるのかもしれないが、伝わりやすい、伝わりにくいを考えたときに、正解が必ずしも正解ではないのが日本語である。

 

"嫁"という言葉も似たような印象。

"妻"が妥当なところだとは思うが、なんか気取った感じがするし、"奥さん"ではよそよそしさを感じてしまう。

"相方"っていうのも、なんだかピンとこない。

"かみさん"や"家内"だと年齢層が上がったイメージだ。

消去法的に"嫁"を選んでいるのだけれど、何か他に良い呼び方はないものか。

これなら恥ずかしくない、という呼称を知っていたら、是非とも教えていただきたい。

 

いっそのこと、自分のことを"あちき"とでも呼んでみたらいいのでは。

個性化はできるかもしれないが、もっと大事なものを失う気がするので、ムズムズしながら今日も"僕"を使っている。

 

「分け目」

わ行

「分け目はどちらにしますか?」

美容院に行くと、最後のセットのタイミングで必ず聞かれる質問。

僕は、これがどうも苦手だ。

 

当然、前髪が伸びてくればどちらかに流すのだが、髪を切ったその瞬間は、分け目を作らなくても済むぐらいまでに短くなっている。

前髪を下ろしたいから、そうオーダーしているのだ。

はじめて行く美容院ならともかく、いつも行ってるところで、いつも切っている髪型。

毎回、「分け目は要らないので下ろしてください」と言わなければいけないのも、面倒というか気まずいというか。

それがそのまま、苦手意識になってしまった。

 

原因はなんとなく察している。

土日の午前中という比較的混みやすい時間帯ということもあってか、終盤のマッサージやセットは担当の美容師さんではなく、アシスタントにチェンジするからだ。

担当制ではないアシスタントに、いつも来ているのだから知っておけ、というのも酷な話。

そもそも1~2ヶ月に1度の散髪で、"いつも来ている"とは厚かましい。

店内で分け目をどうするかの引継ぎを行うより、お客さんに確認するほうが早い、となるのも仕方のないことだろう。

 

ここで素朴な疑問が沸いてきた。

「分け目はどちらにしますか?」は、どのぐらいの長さから聞かれるのだろうか。

極端な例として、坊主頭にした人に、この質問はしないはず。

もしかしたら、髪の毛のプロの美容師さんだもの、過去に分け目があったことを示す微妙な癖を見つけて、確信を持って聞いているのでは。

または、「お前、下ろすの似合わないから、大人しく流しとけ」っていうメッセージが込められているのかもしれないぞ。

 

そんなことを考えていたら、前髪を下ろしては申し訳ない気持ちになってくる。

物は試しと右側に分け目を作ってもらった。

これはこれで良いかもしれないな、と思い始めていたのだが、そうだった、肝心なことを忘れていた。

僕が前髪を下ろしている理由。

"前髪がないとなんだか眩しくて、眉間に皺が寄ってしまう"こと。

もちろん気のせい以外の何物でもないのだが、これがどうにも厄介なもので、意識してしまったら最後、本当に目が回ってくるのだ。

 

結果として、切羽詰った形相で「駄目!やっぱり下ろしてください!」と訴えることに。

アシスタントを大いに怯えさせてしまった。

あなたのセットが悪かったわけではないので、どうか気に病まないで。

 

もともと苦手だったやりとりが、ますますトラウマになった僕。

分け目を作っただけでこの有様なのだから、坊主頭にでもしようものなら死んでしまってもおかしくない。

不祥事を起こして頭を丸めることにならないよう、誠実に生きていこうと思う。