天の川、スカイフィッシュの釣り堀にて

安眠妨害水族館では書かないこと、書けないこと

「運転免許証という身分証明書」

先日、人生で3度目くらいの免許の更新を終えた。

18歳で普通免許を取得してから、もう16年ぐらいが経ってしまったのだと思うと、なんだか気が遠くなってくる。

 

僕は、その間一度も事故や違反を起こしたことがない。

ゴールドドライバーというやつだ。

といっても、免許をとってすぐに上京してしまったため、実際はまったく車に乗る機会がなかったというのが正解。

僕みたいなペーパードライバーにこそ、更新のタイミングでしっかり講習をすべきだとも感じるが、運転スキルを可視化できない以上は仕方ないのだろう。

前回の更新時である5年前から運転経験ゼロという状況にも関わらず、さらっと講習を受けただけで再び免許証を手にすることができてしまった。

 

そんな僕にも、人生で3回だけ、教習車以外で運転した経験がある。

いや、うち2回は未遂で終わったからカウントすべきではないか。

最初は、大学の先輩とレンタカーでドライブに行ったとき。

サービスエリアから運転を交代するという流れになったが、発車しようとしたところで、何故かガソリンの給油口を開けてしまった。

なんとかしないと、と別のボタンを押したら、今度はトランクが開いた。

次に開くのは地獄の門パンドラの匣か。

この時点で、僕の運転デビューは断念せざるを得なかった。

 

次は、社会人になってすぐ、課長を取引先まで連れていくとき。

普段は自転車で移動していた僕だが、さすがに上司を後ろに乗せるわけにはいかないと、車での移動を試みた。

が、教習所の車と仕様が異なっていたことにテンパって、前進して車庫から出なきゃいけないところ、思いっきり壁に向かってバックしていた。

あえなく、運転は課長に交代することになり、僕はまたしても運転デビューを逃す。

こうして、まんまとトラウマ化。

僕が運転をしなくなる下地は、着々と出来上がりつつあった。

 

ところが、思いがけずに運転をすることになる。

親族で集まって会食をした際、車で来ていた親戚が飲酒してしまうという、いかにも正月らしい事件が発生してしまった。

もちろん、親戚を犯罪者にするわけにはいかない。

しかし、免許を持っていて酒が入っていないのは、体質的にお酒が飲めない僕だけ。

いっそのこと、自分もえいやあと酔っ払ってしまえば逃げられたのかもしれないが、腹を括って親戚の車の運転席に乗り込んだ。

 

こんな日に限って、雪が降っている。

夜、かつ悪天候で、もはや車線すら見えない。

隣で寝ているのは酔っ払い。

不安だらけだが、とにかく出発するしかない。

教習所ではマニュアル車に乗っていたためオートマ車のお作法がよくわからず、半クラッチの要領でアクセルを踏みながらブレーキを離したものだから、かなり強引なスタートとなった。

それでも、交代してくれる人は誰もいない。

 

しばらくして、なんとなく"車線変更しなきゃ"と思った。

次の交差点で右折をするから、最右の車線に入っていないといけないと直感的に感じ取ったからだ。

お察しのとおり、これが間違いだった。

どうして勘違いしたのかわからないが、もともといたのが最右の車線だったようで、そこから更に右にズレようとしたものだから、中央分離帯の縁石にタイヤを擦る音がガリガリと車内に響き渡る結果に。

酔っ払いも起きた。

自分の車がほんの少しずつ薄くなっていることを、どれだけ理解していたかはわからないが、そこから二度寝をすることはなかった。

もう二度と、車は運転しないと心に誓った夜のこと。

 

それでも、手元にあるのは新しい運転免許証。

顔写真付きで、身分証明書としての使い勝手は折り紙付き。

結局、身分証を提示する際の煩雑さから逃れるために、免許を更新しているようなものだ。

そして、晴れて廃棄となる以前の免許証と、受け取った新しい免許証を見比べて、僕は大事なことに気付く。

 

5年前の僕、今日と同じ服着てる。

 

「我が青春を関ジャムが回収してくれた」

「関ジャム」のヴィジュアル系史の回が素晴らしかった。

尺の都合や、権利上の問題も発生しうる地上波のV系特集としては、過去に見たことがないレベルの丁寧さで作られていたのではないかと。

 

色眼鏡で見られることも多いV系文化。

面白おかしくアンダーグラウンドの世界を伝えるよ、というバラエティ性の強い企画になってしまうことが大半なのだが、真面目な音楽史として(もちろんテレビ番組としての体裁は保ちつつ)取り扱ってくれたことが、いちファンとしてとにかく嬉しかった。

そして、そういう想いの視聴者が多かったことが、Twitterのタイムラインを見ていても感じ取れた。

 

まず、ヴィジュアル系の定義付けから入ったのが良かった。

その定義も、誰かのエゴで恣意的に作った強引さはなく、文化として捉えるという的を射たもの。

その結果、V系か非V系かで議論が起こりやすい黎明期のバンドについて、誰も傷つかない形ですっきりまとめることができていた。

特に扱いづらいL'Arc〜en〜Cielに関しても、個別の特集は組まない代わりに、DAIGOさんの”定義がはっきりしていなかったから、V系と捉える人もいれば、捉えていない人もいる"というコメントでフォローする、見事な構成だったと思う。

 

次に、音楽性やステージ上での演出など、あくまで舞台人としてバンドを扱っていたこと。

シーンの中で有識者と呼ばれている人たちでさえ、Xの良さは、やれ居酒屋を壊す破天荒さだとか、やれYOSHIKIの無鉄砲さだとか言い切ってしまう現状に、正直、辟易としていた僕。

ルーツを日本人向けに再構築した音楽性への言及や、当時の音楽シーンにおいて新鮮だった部分についての解説は、今更ながら目から鱗という部分もあって、大変興味深かった。

YOSHIKI伝説抜きにXの魅力を伝えたメディアが、他にあっただろうか、と。

 

V系史として取り上げるべきバンドも、適切だったのでは。

もちろん、あれがない、これがないというのは各々あるのだろうが、その時代の一般層(あるいはV系シーン以外の層)にまで影響が波及し、その時代を象徴したバンドに絞った点で軸はブレていなかったのではないか。

そのうえで登場しなかったバンドは、権利上の使用許可が下りなかったのだ、と勝手に納得できるぐらいには、押さえるべきところは押さえられていた。

(実際、Alice Nineなんかはそうなんじゃないかな、と思う。)

バロックや御三家(MUCC、MERRY、蜉蝣)は、シーンの中での影響力は半端じゃなかったのだけれど、上記の軸に合致するかといえば、必ずしもそうではないものな。

1時間番組だったら選出されていたのかもしれないけれど。

 

そんなわけで、僕の青春時代は、この「関ジャム」が回収してくれたような気がした。

"親に紹介できないヴィジュアル系"というワードが独り歩きしている感はあるが、そうなんだよ、親どころか、部活の友達にも紹介できなかったんだよ。

あれだけブームになったにも関わらず、クラスの中に同士はいなかった。

その要因は、どちらかというとネタにして、あるいは女子供のものと小馬鹿にするようなメディアの取り扱いが多かったからに他ならない。

ある程度、文化が成熟したからだという側面はあるものの、あの頃にこんな真摯にヴィジュアル系と向き合ってくれる番組があったなら、肩身の狭い想いをしなくても済んだのかもな。

自分の趣味が、適切な評価をされて、承認されるって、こんなにも嬉しい気持ちになるのだな、なんて。

 

個人的に、ハッとしたのは、PIERROTへの言及がなかったこと。

確かに、世界進出の先駆けになったことを置いても、インディーズながらオリコントップ10に食い込むセールスの記録(浦安鉄筋家族とのタイアップもインパクトがあった)、シングル3枚同時でのメジャーデビュー、番組でも紹介されたMステでの「残」事件など、クラスの話題を掻っ攫うだけの破壊力がDIR EN GREYにはあった。

一方、PIERROTは、洋楽ファンに喧嘩を売った件にしても、インターネット上での無観客ライブの実現にしても、シーンに大きな爪痕を残したのは言うまでもないのだけれど、あくまで通好みのバンドとして君臨していた(だからこそ、宗教的なハマり方をする人が続出した)印象だ。

どうしても、DIR EN GREYだけをピックアップして、PIERROTを無視するなんてありえないだろうという発想に陥るが、それってV系シーンの内側の人間だけの常識なのだよなと、改めて認識させられた次第。

自分の中で"気づき"があったという意味でも、この番組、この特集は、永久保存版にしようと思う。

「ルールに縛られる」

このブログを書くにあたって、ルールはほとんどない。

それでも、唯一設けている"カテゴリー順に書いていく"というルールにだいぶ縛られていて、筆が進まないことがしばしば。

そろそろ廃止してもいいかな?と思わないこともないが、宣言した以上はやめられない性格。

誰も気にしていないのはわかっているけれど。

 

安眠妨害水族館についても、いくつか自分でルールを決めている。

例えば、「~ですね」という言い回しは、原則、ひとつの記事に1回だけ。

あとは、「~ですな」とか、「~ですよ」とかを駆使してやり過ごしている。

「リリース」などの頻出単語を「発表」とか「ドロップ」とかに言い換えたりするのも、同じ理屈だ。

こちらは必ずしも1回に限定はしていないが、近いところで「リリース」の文字が並んでいると、なんだか落ち着かない。

用語は統一したほうがわかりやすいという意見もありそうだが、ここはルールとして割り切っている。

 

そんな中で、これは限界だ、と切り捨ててしまったルールもある。

それは、採点。

ブログ開設当初、レビューしたCDに80点とか90点とか、点数をつけていたのだが、アメーバブログに移転する際に廃止とした。

 

理由はシンプルで、お気に入りの度合いなんて、時期によって変わるものだから。

最初はガツンとハマったけれど、徐々に飽きてしまったものもある。

最初はピンとこなかったけれど、徐々に癖になってきたものものある。

今、主観で100点満点だと思ったこの作品を、2年後の僕が何点と評価するかなんて、自分でもわからないじゃない。

 

じゃあ、主観は時点的なものと整理して、客観的な評価軸も設ければいいか、とも検討した。

①お気に入り度、②歌唱力、③技術力、④構成力、⑤お買い得感、と5つの基準を作って、それぞれ最大20点で採点。

これなら、強みと弱みが可視化されて、納得感はありそうだ。

 

ただし、問題点もある。

バカテクバンドの主観的には全然かすりもしないCD(コスパは良い)をレビューしたとして、①お気に入り度はゼロ点とできるかもしれないが、②~⑤は高得点をつけざるをえないので、総合評価は80点だ。

逆に、①お気に入り度は満点で、多くの人に聴いてもらいたい作品であっても、歌唱力や技術的はまだまだ過渡期というバンドは、その80点を超えることができない。

このジレンマを解消しないと、納得感のある点数は導き出せそうにもなかった。

 

そもそも、本当に個性的なバンドは、ここでは表現できない評価軸に強みがあるかもしれないし…と考えすぎた結果、ほとんどのCDが70点~85点に収まってしまい、点数をつけて良し悪しを比較する意味がないよね、ってことであえなく廃止となったわけ。

僕には合わなかったってだけで、採点制でレビューを書いている人を否定する意味ではないのであしからず。

採点があると、内容を読まなくても良かったのか良くなかったのか、一見してわかる。 

実際、 Amazonなどのレビューは、統計的にそれが可視化されているからとても便利で、参考にしているもの。

 

ただ、CDのケースが割れていたので★をマイナス、みたいなのにはちょっとモヤモヤする。